【Googleストリートビューで見れないシリーズ】
国道1号線を平塚方面から箱根方面へ走ると、酒匂川にかかっている酒匂橋があります。
酒匂橋を渡ってひとつ目の「土木センター入口」信号から海側の住宅街へ入り、2本目の通りを右に曲がって50mくらい進むと、正面に新田義貞の首塚の看板が目に入ってきます。
看板から右へ細い道を入って行くと小さな公園があり、その公園の北側に新田義貞公首塚の石碑が建っています。
学生時代歴史が大っ嫌いだった管理人は、恥ずかしながら「新田義貞」という名前を、この石碑を見て初めて知りました。
看板の内容をざっとまとめますと、
延元3年(1338年)新田義貞は越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によって晒し首にされていたところ、義貞の家臣の宇都宮泰藤(この方は、小田原城主大久保氏の御先祖だそうです)が晒し首を奪い返して、義貞の本国の上野国(群馬県)に葬るため東海道を下ったそうです。
ところが、酒匂川のほとり網一色村(小田原市)に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったということです。
そこで、義貞の首をこの地に埋葬し、泰藤自身もここで亡くなったと伝えられているようです。
なんのゆかりもない地で病に倒れ、主君の首をも祖国で葬ることが出来なかったのは、無念以外のなにものでもなかったでしょう。そんなことを想像していると泣けてきます。
【info】
新田義貞(にったよしさだ)1301-38年 鎌倉後期・南北朝期の武将。
【access】
小田原市東町4丁目付近
※参考文献:『日本史辞典』1996年 角川